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二代目 田中 長兵衛(たなか ちょうべえ、安政5年10月20日(1858年11月25日) - 大正13年(1924年)3月9日)は、明治から大正にかけて、主に鉄鋼業の分野で活躍した実業家である。日本で初めて安定した稼動が見込める銑鋼一貫製鉄所を造った。〔1901年(明治34年)に銑鋼一貫製鉄所として操業を始めた官営八幡製鐵所は、当初稼動が非常に不安定だった為に翌年停止。2年間の停止の後、元釜石鉱山田中製鉄所顧問の野呂景義(1854-1923)を招き改善。1904年(明治37年)より本格的な操業に入る。釜石鉱山田中製鉄所は1903年(明治36年)より銑鋼一貫体制で稼動している。〕 ==経歴== 1858年11月25日(安政5年10月20日)、江戸は京橋北紺屋町の大根河岸で薩摩藩兵糧方として金物及び米穀商「鐵屋」を営む初代田中長兵衛(1834-1901)とその妻みなの長男として生まれ、安太郎と名付けられた。 明治維新の後、陸海軍御用達の商人として大きく財を成した父の元で若年の頃から商業に従事し、その一方で京浜間を往復しては英語、数学などを修めた。1879年(明治12年)には妻との間に長男、長一郎(1881年(明治14年)11月19日-1969年(昭和44年)12月30日)が誕生している。 1884年(明治17年)、明治政府からの官営釜石製鉄所払い下げ打診の際には現地を視察して製鉄業の復興を志し、その頃ヨーロッパから帰国したばかりの海軍技術官・大河平才蔵や向井哲吉(後の八幡製鐵所技監)について製鉄の理論と実際を学んだ。さらに古来よりのたたら製鉄で日本の主要な産鉄地域である山陰、山陽など中国地方にも視察に赴き、同じく熱心な推進論者であった妹婿の横山久太郎(1856-1922)と共に釜石での挑戦を父に進言した。 その甲斐あってか、父・初代長兵衛よりついに製鉄業挑戦の許可が下る。現地の総責任者を任された横山は、雇い入れた技術者たちと共に2年近くも苦闘した後、度重なる失敗を乗り越えて1886年(明治19年)10月16日、49回目の挑戦にしてついに高炉での銑鉄生産に成功した。1887年には政府より釜石鉱山の設備一式の払い下げを受ける。 1896年(明治29年)には前年より日本の統治が始まった台湾北部で金瓜石鉱山の採掘権を取得。現地で「田中組」を組織して採掘に当たる。1901年(明治34年)に父が死去した後は社長職と共に二代目「田中長兵衛」の名前を継ぎ、1902年(明治35年)に鉄管の製造工場の立ち上げ、1903年(明治36年)には釜石製鉄所に製鋼工場を起こして銑鋼一貫体制を成すなど新しい事業にも意欲的に挑戦していった。 1908年(明治41年)3月13日には息子長一郎とその妻貴子(1886-1973)の間に長男、長三(1908-2000)が産まれる。 1911年(明治44年)、馬車鉄道として1893年(明治26年)より再稼動していた釜石鉱山鉄道が蒸気機関鉄道へと改められ、以後1917年(大正6年)に田中鉱山株式会社が発足するまで田中長兵衛の個人経営となる。同年7月20日、緑綬褒章を受章した〔『官報』第1497号、大正6年7月27日。〕。 この頃東京の港区三田に建てられた壮麗な洋風建築の田中長兵衛邸は、1923年の関東大震災の折には焼け出された多くの人々を敷地内に受け入れ、後に東京消防庁第一方面本部として使用されるなどして1992年(平成4年)頃まで残っていたことが確認されている。 1922年(大正11年)にはその翌年行幸する皇太子(後の昭和天皇)を迎えるため、台湾金瓜石の地に檜造りの日本家屋が建てられた。その後の事情で皇太子の行幸は無くなったものの、太子賓館と呼ばれるこの建物は観光地となった金瓜石に今も残り、その庭から内部も窺うことが出来る。 第一次世界大戦後の不況や関東大震災による本店の焼失などが重なり田中鉱山は1924年(大正13年)に経営が破綻。二代目田中長兵衛は経営権を三井鉱山に譲渡し、同年3月9日東京三田の邸宅にて死去した。享年66。 「鉱山業のもとたる鉱区は、国家より鉱業発展のため頂きたるものなれば、鉱山本意の事業経営をなし、自家の利益を顧みず万難に当たり、工場の煙を絶やさぬよう努むべし」との遺言を遺した。 残った台湾金瓜石鉱山の経営については、後を継いだ長男の田中長一郎が現地に赴き調査検討。その結果1925年(大正14年)11月、8年前の株式会社化に際し金瓜石の経営を委任していた新興の事業家、後宮信太郎に株式を譲渡し、彼の創設した金瓜石鉱山株式会社に経営権が移譲された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「田中長兵衛 (2代目)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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